ふかふかのソファは、どうにも落ち着かない。 座った瞬間から深く沈むその座り心地に、未咲は何度も座り直し身の落ち着ける場所を探した。 未咲は自然と背筋を伸ばし、行き場のない手を膝の上に手を重ねる。場違いな場所にいるような気がして緊張が胸の奥で小さく波打っていた。 対して、隣に座る妹の花恋はまるで気にした様子もない。お気に入りのワンピースを着せられてご機嫌な様子で皿に並べられたクッキーを食べている。 このワンピースは汚すといけないからと特別なときしか着せられない。今は特別な場なのだと母からの無言の圧を未咲は感じ取っていた。 花恋の足はぶらぶらと落ち着きなく動いている。ご機嫌なときの癖だ。「おいしい」と笑うその様子には余裕があった。 「ふたりともほんまに可愛いわぁ」 目の前でにこにこと笑うのは、鳴海美代という母の友人である女性だった。年のころは母よりも上であろう。ここに引っ越してきてから初めてできた友人と話せるのが母は嬉しいらしい。母も機嫌よく返答をしている。 「ほんまにね。可愛いわ」 美代の娘である先ほど紹介された少女――香織が艶のある髪を揺らしながら、未咲と花恋の髪をくしゃりと撫でる。その手には、どこか子猫でも相手にするような気安さと、面白がるようなやわらかさがあった。他人に撫でられるという経験があまりない未咲は驚いて、しかし悪い気はしなかった。ただ心の奥をくすぐられたような、面映ゆい気持ちになる。 「花恋ちゃん、おかわりいる?」 「うん!」 「未咲ちゃんは?」 「……だいじょうぶです」 笑顔で答えたつもりだったけれど、未咲にはうまく笑えていたかの自信がない。緊張はまだ続いていた。膝の上で組んだ手を、何度も組み替えたり指先を擦り合わせたりしてしまう。 そんな未咲に気付いているのかいないのか、香織は気にする様子もなく立ち上がりキッチンのほうへと向かった。 その直後――足音がもうひとつ、キッチンから聞こえてきた。 姿を現したのは、ひとりの青年だった。 ひょろりと背が高い。黒髪はまっすぐでサラサラしていて、前髪が額にかかっている。マグカップを持っているので、飲み物をとりにきたのかもしれない。 無表情で、どこか冷たい印象。こちらに視線を向けるが、すぐに逸らされる。 「春樹」 「なに」 香織が呼びかけると、青年はちらりとも目を動かさず、ただ口元だけで返事をした。低く不機嫌そうな声が未咲の耳に届く。 「春樹、お客様。挨拶くらいしなさいって、お母さんにも言われてたでしょ」 「……どうも」 たったの一言だった。 誰に向けられたのかもはっきりしない声で、彼はそのまま何の言葉もなくキッチンを出ていく。 未咲の胸に、小さな緊張が走った。大きな背も相まって、未咲の目に春樹という人間は怖く映った。意地悪をされたわけではない。たった一言、しかも誰に向けたのだかも分からない言葉を投げかけられただけ。 ただ、言葉の少なさと、その無表情さが――どうしようもなく“拒絶”を感じさせた。絶対にこちらに混ざる気はないし、自分の領域にも侵入させないぞという拒絶。 クッキーを口に運ぶ花恋の隣で、未咲はまた居心地悪そうに居住まいを直す。そんな様子を見て、美代は緊張をほぐそうとするように未咲に微笑みかけた。 「未咲ちゃん、本が好きなんやって?」 未咲が驚いたように美代に顔を向けてから、母にも視線を向けた。 「未咲、本好きだもんね」 確認のような、まごついている未咲の背中を押すような、そんな言葉が母から向けられた。 美代はにこやかに続けた。はしゃいで秘密を話す少女のように、囁くように言った。 「家の書斎、よかったら見てみる? 本がたくさん置いてあんやけど」 「……いいんですか?」 そう尋ねる声は、思っていたよりも上擦り高くなってしまった。未咲は本という存在が好きだった。読んでいると別世界に行けるような気がして。でも、登場人物たちはいつだって未咲の傍にいてくれるような不思議な感覚。本が並べられているところを見るだけでもわくわくするに違いない。 美代はいたずらっ子みたいな笑みを深くすると、そっと立ち上がり未咲の手を引いた。 「ええよ。好きなだけ、見ていって」 そのやさしい言葉に、未咲は少しだけほっとしながら、小さな足音をたてて書斎へと向かっていった。
連れていかれた部屋には、壁一面に本があった。学校の図書館のような光景。たくさんの本に未咲は目を輝かせる。 「大人の人が読むような、資料の方が多いんだけどねぇ。図鑑とかもあるし、それに、ほら。春樹や香織が小さいころに読んでた本もここに詰め込んであるの。我が家の本たちはとりあえずここ」 確かに高い場所にある本たちは難しい漢字が並ぶ背表紙ばかりだった。図書室でも見たことのないような分厚い本たち。古そうな本もいくつかあって、なんだかあれには触れてはいけないような気がした。 しかし、低い場所には未咲にも読めそうな本がちらほらとある。図書館でおなじみの親書サイズの児童向け本から大衆向けの文庫本まで様々だ。 「もう春樹以外ほとんど使ってない部屋だから、埃っぽいかもしれないわね。未咲ちゃんが来るって知ったからきちんと掃除はしたはずだけど……」 春樹。先ほどの青年がここを使っているらしい。ということは彼もまた本を好きな人間であるのだろうか。 未咲はひとつひとつ丁寧に背表紙を眺めていった。確かに図鑑もあって、それは子供向けというよりも大人の資料といった感じだ。やっぱりこれらに触れるのは気が引ける。しかし香織や春樹が読んでいたという本たちには興味があった。 指先で背表紙に触れながら食い入るように本のタイトルを眺め始めた未咲に微笑みを向けてから、美代はあまり光の入らない部屋に電気をつけてくれる。 「気に入った本があったらリビングに持っておいで」 そう言い残して、美代はリビングに戻っていく。美代が部屋を出て行ったのを確認してから、未咲はひとつひとつ気になる本を手に取り、一ページ目を開いてみては別の本を手に取るのを繰り返した。たくさんの世界が広がっていた。 家にはこんなに大きな本棚はないので、本を買えるのは限られたときだけだ。母と一緒だと本屋に行くことも少ない。家の中にこんなに本がある場所があるなんて羨ましいと思った。 息を吸い込むと、図書室に似た安心する匂いが漂ってくる。未咲の大好きな匂いだった。 じっくりと眺め書斎を探検しているうち、日の入る窓辺に置かれた机に一冊の本が置かれていることに気付いた。こんな場所に置いていたら表紙が日に焼けてしまう。自然と近づいた先にあったのは綺麗な星が散る装丁の文庫サイズの小説だった。普通の本より薄い。見たことのない雰囲気がむしろ気を引いて、未咲はほとんど無意識に手に取った。 タイトルには「海降る夜に」と書いている。星じゃなくて? と不思議に思った未咲は一ページ目を開いてみる。先ほどまでは一ページ目を読んだら他のものもと試していたのに、その小説だけは魅入られるのが一瞬だった。 最初の一文を読んだ瞬間、世界が変わった。 登場人物は、名前も語られない「私」と「あなた」。 ふたりの間には、なにかあたたかいものと、悲しいものが静かに流れている。そんなふたりが不思議な海辺を歩く、少しファンタジーが入り組んだような話。 言葉は少なく、情景描写はやわらかく、空白が多かった。でも、その“余白”に、胸がきゅうっと締めつけられた。 寂しいと思うのに、あたたかな文章だとも思った。 めくるたび、ページの向こうで誰かが何かを言いかけて、けれど飲み込んでしまうような――そんな“言えなかった言葉”が、文字のすき間に詰まっている気がした。 目を離せなかった。 物語が進むほどに、未咲の心はふわふわと浮かび、ページをはやくめくりたいような、もったいないような、不思議な気持ちになっていた。無意識に何度も唇を噛み、物語に没頭していた。 最後の場面で「私」が「あなた」にさよならを告げる瞬間――その“さよなら”が、どうしようもなく優しかった。別れの言葉なのに、どうしようもなく。 さよならは、冷たく突き放す言葉だと思っていた。そんな考えが、一瞬で塗り替えられたような感覚だった。 読み終えたページの上に、未咲は手を置いた。紙の温度は未咲の体温が移ったのか温度を持っているような気がした。この物語の温度が、感じられているような気がした。 コトリ、と軽い音がした。 振り向くと、書斎の扉が静かに開いていた。 そこに立っていたのは、数時間前にキッチンで見かけた青年――春樹だった。その表情にはどこか無表情に近い冷たさがあった。 未咲の心臓が一瞬で跳ねる。そういえば、ここを使うのは春樹くらいのものだと言っていた。当然、春樹もここを使いに来たのだろう。 ――怒られる。反射的に思った。読んでも良いと言われたけれど、そんなこと彼は知らないから。 「……読んだんか、それ」 低く静かな声だった。怒鳴るわけでもなく、ただ淡々と。 けれどその“静かさ”が、余計に未咲を緊張させた。なにを考えているのかが分からなくて、これは春樹の本だったのだろうかと思い至る。 「……ご、ごめんなさい……。勝手に開いて、読んじゃって……」 慌てて持っていた本を差し出す。しかし“渡す”と言うには相手との距離が遠い。 春樹はそれを受け取りに距離を縮めるわけでもなく、ただ未咲をじっと見つめていた。 その墨色の目には、怒りというよりも、むしろ――戸惑いの色が滲んでいた。 「いや、ええよ。……読んだもんは、しゃあないし」 ぽつりとそう呟く。 その声に、未咲の身体の力がふっと抜けた。怒られていないことに、まず安堵した。 そして意外と春樹が優しい言葉を使うことにも、心が緩んだ。 「……あの……これの続きって、ありますか?」 安堵したついでに、ぽろりと言葉が出た。家主なら在りかを知っているかもしれない。 「続き……?」 「はい。……もっと、このふたりの話を、読みたくて……」 春樹は目を瞬いた。 「……ないわ、そんなもん」 当たり前だろとでもいうような言葉に、未咲は言い募る。どうしてもこの物語の世界を手放してしまうには惜しい。 「え、じゃあ、この作者さんの別の話――」 「俺が書いた話やから、それ。どこにも売ってへんよ」 まるで面倒くさそうに、けれどどこか気まずげに視線を逸らした。 しかしそんな様子に気付く前に未咲の胸はまた不思議な熱でいっぱいになる。その熱は、未咲の引っ込み思案な気質を吹き飛ばすほどの熱だった。 「――すごい!」 言葉が弾けた。未咲は思わず、本を胸に抱きしめ駆け寄る。一気に縮まった距離に春樹は驚いたようにびくりと肩を跳ねさせた。 「お兄さんが書いたの? 本当に!? すごい! とっても素敵だった!」 目を輝かせ、早口になりながら語り出す。伝えなければいけないことがある、と思った。登場人物たちが、そしてページの向こうの誰かが、“言えなかった言葉”を形にして誰かに届けなければと思ったのだ。きっと「私」と「あなた」はその選択があたたかなものだったことを知らない。 「ねえ、最後、“さよなら”で終わるでしょ? でもね、“さよなら”が優しいって、初めて思ったの。ふたりとも寂しいのに、あったかくて、それでね、」 春樹は目を見開いたまま、未咲の言葉を黙って受け止めていた。浴びせかけられる未咲の素直な言葉たちは、しかしその素直さ故に支離滅裂な部分がたくさんあった。それでも、春樹はその言葉を黙って聞いていた。 しばらくしてから、ふと言葉が止まる。そして、未咲は恥ずかしそうに顔を赤らめた。 「ごめんなさい。いっぱいしゃべっちゃった」 そこから落ちた沈黙に未咲は気まずそうに身じろぎをする。熱く語りすぎて身がほてっているような気がしたし、持ちっぱなしの文庫本に手汗がつかないか気にして持ち直したりした。 「……そんなこと言われたん、初めてや」 ぼそりと、本当にぼそりと春樹が言った。キッチンで聞いたのと変わらない、ぶっきらぼうな言葉遣い。しかし未咲はもう緊張することも怖いと感じることもなかった。 感謝でも驚きでもなく、ただ「意外だ」と正直に呟いたような声だった。未咲はただ嬉しくて、ふわりと笑った。さよならの優しさに気付いていなかった人にちゃんと届いた気がして得意になった。 自分の気持ちがちゃんと相手に分かってもらえたのが嬉しくて、未咲はきゅっと手に力が入った。