「あらあら、なあに? ふたり仲良くなったの?」 軽やかな声とともに扉を開けて現れたのは香織だった。柔らかな微笑みを湛えたその瞳は、ふたりのやりとりを遠巻きに眺めていたようでどこか芝居がかっていた。ふたりでしゃべる様子を珍しいものでも見るように、しかし少しからかいを含んだ目で見ている。 「あ、えっと、」 「ふふ、なかなか戻ってこぉへんと思ったら春樹とご本トーク?」 気安くて、どこか探るような声色。その目にはからかい半分、好奇心半分。しかし、根底には、ふたりを見守るようなぬくもりがあった。 「そんなんやない」 さきほどまでの戸惑ったような顔を即座に引っ込めて、春樹はそっけなく返した。あ、と未咲は思う。先ほどまでの表情は少し春樹の無防備な部分に触れられていた気がしていたから、急に心の扉を閉めてしまったような変化を残念に思った。 「え、違うの? 未咲ちゃんが持ってるの、春樹の本やんか」 香織は意地悪を言ったわけではなく、ただ事実を指摘しただけのような顔をして言った。それは気のせいではなく本当に含みはないのだろう。 「別に読ませたくて読ませたんちゃう。勝手に見つけられただけや」 春樹の言葉には照れとも苛立ちともつかない響きがにじみ、未咲が手にしていた本をそっと取り上げた。 「でも、見つけてもらってよかったんちゃう?」 香織の声は、優しく響いた。未咲の顔を覗き込み、頭を撫でる。ここに来たときとは違う、優しく慈しむような撫で方。 「こんなにキラキラした顔、なかなか見られへんよ」 その言葉を受け取るように、春樹は一度未咲に目をやる。けれど、それを誤魔化すようにすぐその視線を逸らし何も言わずに背を向けた。 無言のまま部屋を出ていく姿を見ていると不機嫌になったのだろうかと落ち着かず、その背中を見つめる。 すると、隣に立つ香りが苦笑いを零して未咲に気を遣った。 「……ちょっと、照れてんのよ」 香織は気を取り直すように未咲に手を差し出した。未咲はもう手を取られるような歳ではないのだが、“お姉さん”の香織にとって未咲はちいちゃな子供だ。 「未咲ちゃんが戻ってこぉへんからお母さんたち心配してたよ? リビング戻ろ」 手を取るか少し戸惑ってから、素直にその手を握る。少し低い柔らかな温度が未咲の手を包む。母の手とも違う、柔らかで華奢な手。香織はぶらぶらと未咲と繋いだ手を揺らしながら廊下を歩く。手を揺らされるたびに香織の機嫌の良さが伝わってきて、不思議な心地になる。 「未咲ちゃん、ありがとうね。春樹の話、気に入ってくれて」 「え、えっと……ほんとうに、すごく、良かったから……」 「うんうん。私には小説の良さってもんが分からんのやけど、良い話なんやろね」 どこか距離感のある物言いに未咲は不思議そうな顔をした。すると香織は照れたようにはにかむ。 「私にはああいう情緒的? なのって難しいんよ。未咲ちゃんには分かるんやね」 その言葉には子供扱いするような雰囲気はなく、未咲は香織が自分をどう思っているのか分からなくなる。 香織にはそういう不思議なバランスがあって、それが魅力的に映るのだった。 「でも春樹、自分のことになるとほんまに不器用やからさ。褒められるのも苦手なんよ」 香織は仕方ないなと言うようにわざと茶目っ気のある軽い溜息を吐いてみせる。 どこか不満そうに「未咲ちゃんの前でくらい愛想よくしたらええのに」と呟いてから香織は内緒話みたいに声を潜めて囁いた。 「……でも、ちゃんと未咲ちゃんの気持ちは届いてたと思うよ。あの子なりに、ね」 未咲はそっと頷いた。そうだといいなと思ったから。 あの物語の良さを書いた本人が分かってないのは勿体ないことだ。あんなに素敵な小説を書いたのに、それを知らないでいるのはそれこそさみしいことだった。 まだ、本を開いた瞬間にパッと宿った熱や読んだあとの感動の余韻が残っていた。
その夜、未咲は家に帰ってもずっとそわそわしていた。あの小説のこと、春樹のこと、感想を直接伝えたこと、全てがぐるぐると頭の中で回り続ける。 夕食の味もよくわからなかったし、お風呂の中でもぼんやりとしてしまう。ベッドに入ってからも思い出すのは春樹のことだ。 ――そんなこと言われたん、初めてや 春樹の、少しだけ目を見開いた表情。戸惑ったように泳いだ視線。 それから、手の中で静かに温度を宿していた、あの本。 もっとちゃんと伝えたかった。熱のまま衝動に動かされた支離滅裂な言葉じゃなくて、もっと自分らしい言葉で。 そう思った未咲は、机の引き出しから便箋を取り出した。 普段は手紙なんて書かないけれど、それでも「この気持ちだけは書いておきたい」と思ったのだ。 読み終わったあとに心に浮かんだ気持ち、感想、余韻、全部――。 未咲は、何度も言葉を選びながら、便箋にゆっくりとペンを走らせた。 できるだけ丁寧に文字を書いたからか、とても時間がかかりながら完成した手紙には星のシールで封をした。 数日後。 晴れているのに空気は冷たく、朝露が庭の草を白く濡らしていた。春になったとはいえ、まだ朝夕は冷える。 休日は遅くまで寝ているのが常の未咲が、その日だけは朝早くから起きてきたことに母は驚いたようだった。 「そんなに鳴海さん家に行きたかったの?」 今日、未咲は母に頼み込み、もう一度だけ鳴海家に行かせてもらうことになっていた。 どうしても渡したいものがあるから、と。手紙なら渡しておいてあげる、と言われたが頑として未咲は直接渡すと言って聞かなかった。 いつもなら未咲の我が儘をいなしてしまう母も、今回の未咲の熱量には負けたらしい。結局、連れていくことに決めたのだった。 その、約束の日が今日なのだ。 鳴海家の玄関の前に立つと、心臓がどくどくと波打つのがわかる。 「あんたが言ったんだから」 と母は未咲にインターフォンを押させた。インターフォンを押す手は緊張からか強張っている。 インターフォンを押すと香織がにこやかに戸を開けて迎えてくれた。 「おはよう、未咲ちゃん。また来てくれてうれしいわ。この前の続き、春樹に話しに来てくれたの?」 その言葉に、未咲はドキリとした。図星だったからだ。でも、言葉にされると恥ずかしい。顔を赤くしながらも、小さくコクリと頷いた。
廊下の奥。 書斎の扉の前に立った未咲と香織は、そこで足を止めた。 「春樹、たぶん今日は書斎にいると思うから。作業するときはだいたいここにいるの」 緊張した面持ちで頷くと香織は気持ちをほぐすように未咲の頭を数度撫でた。 「大丈夫。春樹、ああ見えて怖くないから」 ぽんぽんとおまけに手を頭の上で弾ませてから微笑んだ香織がそのまま踵を返してリビングの方へ向かう。母と美代がお茶をしているリビングへ戻るようだ。 静かな廊下にひとり、残される。背筋にゾワゾワと緊張が押し寄せてくる。そこには確かに期待も入り交じっていた。 手の中の便箋が、指先の汗で少しずつ湿っていくような気がした。 ここに来るまではあんなに待ち遠しかった瞬間なのに、ノックをする手がどうしても持ち上がらない。 ……どうしよう。 未咲が困った顔で途方に暮れた、そんなときだった。 「……なにしてんの」 背後から不意に聞こえた声に、未咲は肩をびくりと震わせた。 振り返ると、マグカップを片手にした春樹が立っていた。髪を無造作にかきあげ、じっと未咲を見下ろしている。大きい背も、無表情も、今日は怖くない。 「あ、えっと……その……勝手に会いに来て、ごめんなさい」 小さくうつむきながらも、未咲は正直にそう言った。 「なんで謝るん?」 「え、」 「会いに行くんはいつだって勝手なもんやろ。自分都合やねんから」 「……ごめんなさい」 難しい言い回しによく意味は分からなかったが、言った言葉がよくなかったらしいということは分かったので謝った。 そして、謝ってから謝ったことが良くなかったのにと気付いて「あ、」とか「う、」とか言って春樹の方を見上げた。 けれど春樹は、特に怒った様子もなく、小さくため息をつく。 「……別にええけど。俺に会いに来たん?」 その言葉に未咲は小さく頷いた。喉奥に言葉が詰まったように、うまく声が出せなかった。けれど、視線には確かな意志が宿っている。ここへ来た理由を、反芻するように手紙をきゅっと持ち直した。 「はあ、そう」 興味なんてなさそうな声。けれど、その語尾にどこか優しさが滲んでいた。 彼は少しだけ目を伏せ、それから書斎の戸を押し開けた。 重たく閉じていたように思われた扉が、ゆっくりと音を立てて動く。 数日前と同じ静けさが部屋の中に流れているはずなのに、今はその静けさがどこか違って感じられる。 未咲は深呼吸をする。胸の奥で、何かがやわらかく波打っていた。 「で、何?」 あの窓際の机にある椅子を引きながら、問いかけられた。 低くそっけない問いかけ。だが今の未咲にとっては助け船だ。その声音に棘がないことが、未咲の気持ちを後押ししてくれた。 時間をかけて何度も書き直した手紙。本当に書き残しはないだろうかと、後戻りできないこんなときなのに思ってしまう。 ただ静かに未咲の行動を待つ春樹に思い切って手紙を差し出した。 「……これ。渡したくて来たの。感想文、書いてきた。昨日はうまく言えなかったから……もっとちゃんと、伝えたくて」 差し出した手紙を、春樹は黙って受け取る。 物珍しいものでも見るように封筒をまじまじと眺めてただ黙っているので未咲は迷惑だったかと心配になり始めた。 どのくらい経っただろう。数秒の時も、長い時に感じられた。 沈黙が苦になってきたころ、ようやく春樹は口を開く。 「……感想文?」 「うん……授業みたいな書かされたのじゃなくて……自分で書いた、ただの感想文。ほんとうに好きだったから」 未咲は視線を下げ、“好き”という言葉を特別なもののように丁寧に発音して照れたように小さく笑った。 あの気持ちは、時間が経っても消えなかった。むしろこうして何度も何度も丁寧に書き直して言葉にすることで、もっと深くなった気がしていた。 春樹は、手紙をしばらくじっと見ていた。裏返して、表に返して、読むわけでもなくただその存在を感じているように。 「……なんや、お前。ほんまに変わっとるな」 「え……変、かな?」 確かにわざわざ感想文をしたためるというのは、未咲にとって“特別”なことだった。ある人にとっての“特別”は、ある人にとっての“変”だ。 不安げに問い返すと、春樹はほんの少し、口元だけで笑った。初めて笑った顔を見て、驚くのと共にほわりと暖かい気持ちが胸の中に広がった。 「いや。――ええことやと思うで。感想を言葉にするんは、意外と難しい」 静かな声だったけれど、その言葉はまっすぐに未咲の胸に届いた。 はっとしたように顔を上げ、未咲の顔がぱっと明るくなった。嬉しそうに微笑むその表情を春樹は直視できずに、ふいに視線を外した。どこかくすぐったいような、柔らかな空気がふたりの間を流れていく。 「……また読みたくなったら、言ってな」 ぽつりと落とされたその言葉に、未咲はきょとんと目を瞬かせる。 「え?」 春樹はわずかに口の端を引いて、そっけないふりをしたまま続けた。 「書きかけの話、あるにはあるし。完成してへんけどな」 その言い方は遠回しで、不格好で、けれどたしかな優しさが滲み出ていた。 「ほんとに……?」 ぽつんと漏れた未咲の声は驚きと喜びが混じった、期待に満ちた声だった。 「ほんまや」 春樹は照れ隠しのようにカップの中のコーヒーを啜った。 未咲は、頷きながらまるで宝物でももらったように目を細めて、静かに笑った。
部屋の外、廊下の影に潜んでいた香織は、扉越しにふたりのやり取りをこっそり聞きながら、胸の奥で小さく息を吐いた。 小さい子を突き放すような真似はしないと分かっていても、春樹の不器用さがときに言葉の温度を削ってしまうことを知っていたから。未咲にも冷たい態度をとってしまうのではないかと気が気でなかったのだ。 あんなに緊張と期待に満ちた未咲を傷つけやしないか心配だった。 けれど、その心配は取り越し苦労だったようだ。静かに紡いだ言葉たちは、不格好ながらも確かに温度をもっていた。 戸の向こうに漂う空気は、春の陽だまりのように、柔くあたたかい。 「……ふふ。春樹もやっと、本当の“読者”を見つけたんかな」 ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。 未咲が書斎から出てくる気配に気づき、香織は気配を悟らせないよう足音を忍ばせてその場を離れた。 背後に残るのは、柔らかな会話の余韻と、少しだけの伸びた春の陽光。 その日、風は穏やかで、まるで何か始まりを告げるような午後だった。