その日、空はどんよりと重たく濁っていた。 空気に混じった湿気が坂道を歩く足にまでまとわりついてくるようだ。 未咲はいつものように、鳴海春樹の家へ向かっていた。何気ない道のはずだった。いつもどおりの。けれど、ふとした違和感に足を止める。 民家の塀の陰。草の揺れる音と共に、小さな生き物の気配がした。未咲は生き物が好きだ。期待の大半は野良猫が見られるかどうかだった。生き物がこちらに向かってくるのをなんとなくの思いで待っていると、にゃあと期待通りの声がする。 予想していたよりも小さな、子猫と表現してよい、まだ足元もぽてぽてと覚束ないような存在だった。背中側は縞柄、お腹のあたりの白は草露で汚れている。いわゆるキジ白と呼ばれる柄の猫。 しゃがみ込むと、その子猫が痩せているのが分かった。親猫が近くにいるのだろうかと待ってみても、近くに生き物の気配はない。 「……迷子?」 声をかけると、猫はにゃあと人懐っこく鳴いて未咲のスカートに爪を立て膝に上ろうとしてくる。 「わわ、ちょ、ちょっと待って。困るよ」 そんなこと言っても、猫には通じない。困ったようにあたりを見渡す。こんなに人懐っこいなら飼い猫だろうか。しかし、こんなにも痩せているのだ。親猫も近くにいない。困り果てて、その末に未咲はバックの中に入っていたタオルを取り出し猫を優しく包んだ。
玄関の引き戸を開けると、春樹がのそのそと未咲を出迎えてくれる。 仕事のときにつけている眼鏡越しの視線が、未咲と、その腕の中でゴロゴロと喉を鳴らす猫へと向けられた。 「……なんや、“それ”」 それ、なんて素っ気ない言葉で表したのは面倒くさいことになったということを瞬時に把握したからにほかならない。 「あの、懐かれちゃって、置いてこられなかったの。ね、お願い。今だけでいいから……預かってくれないかな。里親が見つかるか、飼い主が見つかるか、そのあいだだけでいいの」 春樹は何も言わず、未咲に近づいた。彼女の腕からタオルごと猫を受け取る。その手つきは存外優しくて、未咲は春樹が動物を苦手としていなくてよかったと思った。 キジ白の猫は、彼の腕に包まれても逃げることなく、寧ろ喉を鳴らして擦りついた。 「……また甘え上手なやつやな。お前も、この猫も」 「……ごめん。でも、わたしの家だと飼えなくて。でもね、この子、わたしのこと気に入ってくれたみたいで。きっと春くんのことも好きになるよ」 子供みたいな言い訳の連続に「はあ」と春樹は溜息と共に降参した。春樹は未咲にだけは甘い。 「名前、決めたんか?」 「え?」 「飼い主が見つかるまでの仮でもなんでも、名前がないと不便やろ」 猫を預かってくれるらしい春樹に未咲はパァッと表情を明るくさせる。 「うん、“小舟”ってどうかな」 「小舟?」 未咲はにこりと笑う。 「舟って感じがするでしょ。この子、ちいさくて、流れに揺られてどこかへ流されてしまいそうな舟。でもわたしたちより小さくて、守りたくなるから小舟」 春樹は少しだけ口元を緩めた。それは彼にしてはずいぶんと肯定的な、優しい表情だった。 「……悪くない名前やね。俺の家に来る猫としてもな」 「じゃあ……うちの子、だね?」 「ちゃうわ。俺ん家に来た“お前の子”や。俺はしゃあなしで住居を提供するだけ。世話はお前がするんやからな」 未咲は嬉しそうに笑い、小舟を優しく撫でた。猫は満足そうにひと鳴きし、未咲の指先に鼻先を擦りつけた。
その夜、小舟は居間のソファに丸くなって眠った。 未咲はソファの端に座り、寝息を立てる猫を見つめている。 春樹は台所で未咲のためのコーヒーを用意しながら、ぽつりと言った。 「舟が増えたな、この家にも」 「ん?」 「お前、昔俺たちを舟に例えたやつ、覚えとったんやろ。それで、俺たちの人生に加わるから小舟。気付いてないと思っとったん?」 「あ、バレてた。ちょっと、恥ずかしいかも」 未咲はくすりと笑った。 そして、静かなその夜も。 ふたりとそれに加わった一匹の舟は、同じ方角へ、静かに流れていた。